機友会ニュースデジタル版第95回 若井 隆純 氏(昭和63年卒) 「成長できたことに感謝」

成長できたことに感謝

若井 隆純 (昭和63年卒)

私が立命館大学に入学したのは1984(昭和59)年4月。附属高校からの内部進学で、機械工学科を選んだことに特に深い理由はなく、国語や社会科の勉強が嫌いだったのでなんとなく理系―その中で学ぶことの中身が最も想像し易かった機械にした―それだけでした。そんないいかげんな奴でしたから、当然、大学では好きなことをして遊んで暮らそうとしか考えていませんでしたが、中学・高校のホッケー部の先輩から強く誘われるまま、大学でも結局、4年間、ホッケーに汗を流すことに。自分自身は平凡な選手でしたが、仲間に恵まれたおかげで、全日本学生選手権で上位の成績を収めるなど、そこそこいい思いもできました。しかし、遊ぼうと思っていた時間が、ホッケーの練習に置き換わっただけで、ほとんど勉強しない学生時代を送ってしまった私は、卒研(大南・坂根研究室…これまた特に理由があって選んだわけでなく、大南先生の材料力学の授業と坂根先生の機械工学実験が比較的面白かったからという程度の理由で選びました)にもあまり顔を出さず、坂根先生から「キミ、このまま卒業したら、理工学部を卒業したのか、ホッケー部を卒業したのか分からへんで。大学院行ったらどうや?」と言っていただき、あっさりと進学することに決めました。ここまでの私は、自分のことを自分では何も決めない典型的な優柔不断男であったと思いますが、大学院に進むことを決めてからは、徐々に将来のことを考えるようになりました。おそらく部活を引退し、考える時間ができたのだろうと思います。

[下手の横好きで熱中したホッケー]

34回男子第7回女子全日本学生ホッケー選手権大会1985113日より於親里ホッケー場他

大学院の2年間は修士論文のテーマ以外に、坂根先生が取ってきた文部省(当時)の科学研究費助成事業(いわゆる科研費)の実験と解析、学位を取得するために内地留学されていた大阪産業大学の先生のための実験など、それなりに精力的に活動し、実験や解析に必要な勉強もムリヤリさせられたおかげで知識も増えました。また、先生方からは、計画が重要であること、失敗した場合の備えを先回りして考えておくことなどを教えていただきました。

就職は、先生が勧める某大手電機メーカーを辞退し、自由応募で受験できる動力炉・核燃料開発事業団に就職することに決めました。発電した以上の燃料を生み出す夢の原子炉=高速増殖炉の実用化というプロジェクトに、大学院で学んだ鉄鋼材料の高温強度の知識を活かして関わりたいと考えました。先生からは「将来、無くなる趨勢の分野に就職してどないすんねん?」などと言われましたが、もうこの時は流されませんでした。当時は「2015年に実証炉運転」というスケジュールが明示されていて、「自分が50歳のときに自分たちの設計した新型原子炉が完成し、小資源国日本の未来を拓く。まさに一生を捧げる価値のある仕事じゃないか」などと考え、ブレることはありませんでした。大学院の2年間は、今思えば青臭かったものの、私を自分の頭で考えられる人間に成長させてくれました。もし、大学院に行かずに就職していたら、私はただ周囲に流されるだけの人生を送っていたことでしょう。進学を勧めてくれた坂根先生には感謝しかありません。

さて、ご存知の通り、東日本大震災による福島第一発電所の事故を機に、原子力発電に対する逆風は以前にも増して強くなり、高速増殖原型炉「もんじゅ」は政争の具とされ、新型炉開発の機運は縮小し、自分の存命中に高速増殖炉を見ることは夢で終わりそうですが、後悔はしてません。現状の利用可能なエネルギーを冷静に考えれば、原子力を捨てる選択肢はあり得ないと信じるからです。COフリーとか言って、電気自動車の普及を謳っても、火力で発電した電気を充電してたら、意味ないでしょ!!

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