2020年3月13日に掲載いたしました シリーズ「鉄の利用:人類の遥かなる営み(6)」【鉄器時代の幕開けと世界的な伝播】の図6.2に誤りがありました。
これを修正するとともに、関連部分の本文の説明を若干訂正させていただきました。
鉄の利用:人類の遥かなる営み(6)【鉄器時代の幕開けと世界的な伝播】
酒井達雄(本学名誉教授/総合科学技術研究機構上席研究員)
前回の記事で、現在のトルコ付近を中心にして高度の文明を開いた古代オリエント時代の民族「ヒッタイト人」が、紀元前1500年頃に大量の鉄をつくる製鉄技術を確立し,この製鉄技術を武器にして周辺地域を次々に支配下に置くような一大帝国を築いた経緯を紹介しました。図6.1は、現在のトルコで発掘された古代オリエント時代のヒッタイト王国の遺跡の写真です。王国の都はハットゥシャにあり、天日干しのレンガを積み上げた大規模な建築物が建設されていたことが分かります。文献によれば、市街を囲む城壁には6つの門があり、その内の3つ(ライオン門、スフィンクス門、王の門)が復元されています。スフィンクス門の下には地下道が設けられており、緊急時には城門を通らなくても出入りできるようになっています。図に示す建物跡は200に及ぶ矩形の部屋から構成された大神殿であり、大部分の部屋が穀物などの収納庫だったようです。ヒッタイト人の信仰として1000を越えるほど多くの神があり、農業、戦争、守護、豊穣、天気など、それぞれ特定の目的に対する神が信仰の対象になっていたようです。このような背景の中で、種々の穀物が集められると一旦図中の神殿の各部屋に分割保管して神々に捧げ、その後、王族や役人・従業員、人民などの食料として消費されていました。なお、この遺跡発掘時の大きな発見として、図の左上部に示す粘土板があり、ここには当時のエジプトとヒッタイト王国との間の和平協定文が楔形文字で刻まれています。これらの遺跡や発掘品を見るにつけ、紀元前1500年頃の時代の当地の人々の創意工夫と凄まじい生の営みに、畏敬の念を禁じえません。
さて、上記のヒッタイト王国の形成が「鉄」と結びついていることは、すでに度々記載したところですが、ヒッタイト民族がアナトリア高原で確立した製鉄技術が、その後、どのような経路で世界に広がっていったのか?これは、文明・文化の世界的進展・変遷に直結する極めて興味深いテーマです。筆者は、これまで母校・立命館大学理工学部の教員として50年近く、材料強度学や信頼性工学分野の研究・教育に携わってきましたが、何らかの大きな課題に直面したとき、偶然にも誠にありがたい助け船に出会うことが度々ありました。実は、機友会ニュース(デジタル版)に本シリーズの長期連載記事の執筆を開始し、ヒッタイト人が世界で初めて製鉄技術を古代オリエント地域で確立した経緯を前回記事で紹介したところで、機友会会長の池田英一郎氏より耳よりのニュースをお知らせ頂きました。それはNHKテレビの特別番組「NHKスペシャル/アイアンロード =知られざる古代文明の道=」なる放映計画の事前予告情報でした。これ程タイムリーな出来事は滅多にないことであり、池田会長に謝意をお伝えするとともに、2020年1月13日,21:00-21:59の放映時間帯はメモ用紙を前に置いて、必死にメモをとりながら、フルタイムしっかりと番組を視聴しました。今回は、この特集番組の放映内容を中心にして、鉄器時代の幕開けと世界的な伝播の経路を簡潔に紹介します。
繰返し述べたとおり、ヒッタイト人は強度の高い「鉄」の威力を武器にして古代オリエント地域を支配するとともに、とりわけ鉄製の戦車と武器により、次々に周辺地域に勢力を拡大して行きました。対戦相手は青銅製の武器しかない状況下、ヒッタイト人の優勢は揺るぎなく、周辺諸国からは最強軍隊を備えた一大帝国に大きな圧力と脅威を感ずることになります。このような状況下,地域間・民族間の紛争や戦闘で連戦連勝を続けるヒッタイト人の製鉄技術に対して、周辺地域・民族より大きな羨望の念が集中したことは、疑う余地がありません。一方、ヒッタイト人は宝物の「鉄」を製造する技術を徹底的に秘匿し、自らの帝国の優位性を確保しようと血眼になったことも容易に想像できます。おそらく、「製鉄技術」を偵察しこれを盗むためにスパイのような人物が、色々な地域から侵入したこともしばしばあった筈です。このようなスパイが見つかった時は、直ちに殺戮などの仕打ちもあったかと筆者は推察します。
何事につけ、吾が事だけの勝手な都合で技術や事実を秘匿した場合、結果は自らの首を絞めることになります。これは時代を越えて、洋の東西を問わず、普遍的な真実でしょう。ヒッタイト民族の栄枯盛衰は、まさしくその格好の具体例に当たると思われます。記述のとおり、ヒッタイト族が現在のトルコ付近の古代オリエント地域に王国を確立したのが紀元前1700年頃であり、独自の文字や言語体系を確立していた優れた民族です。この優秀な民族が「鉄」を拠り所として建国し、強大化したヒッタイト王国は、なんと、わずか400~500年余りの短期間で滅亡することになります。古代オリエント時代に関する文献を広く調べると、当該地域および周辺地域に住む多くの民族・種族間の紛争や戦闘に関して、対戦相手の民族・種族が判明しているのが普通ですが、紀元前1200年頃にヒッタイト王国は「海の民」と呼ばれる集団から総攻撃を受け、鉄の威力も効果なくこの戦闘に負けてしまいます。前回記事の図5.1として示した古代オリエントの地図を参照すると,ヒッタイト王国は北側が黒海に面し、南側が地中海に面しており、西側はボスポラス海峡・エーゲ海・地中海に面しています。すなわち、アジア大陸に続く東側だけが陸続きで、他の3方が海で囲まれた大きな半島のような地理的条件にあります。したがって、北側・南側・東側の広大な海側から周辺諸国の連合軍のような形態で大規模な攻撃を受けたことになります。この戦いについて広く文献を調べましたが、ヒッタイト王国を攻撃した種族・民族が記載された文献は見当たらず、唯一、祖国不明の「海の民」から攻められたとの記載があります。筆者は世界史や古代史の専門家ではありませんが、今回の記事執筆に際して行った文献調査の結果を綜合すると、ヒッタイト王国が秘匿を徹底していた製鉄技術を手に入れるために、周辺の多くの種族・民族が一斉蜂起してヒッタイト王国を攻撃したのではないかと推察します。
このような総攻撃に負けたヒッタイト王国は俄かに衰退が進み、紀元前1200年頃には滅亡の憂き目を見ることとなります。この時期を節目にして、製鉄技術が世界的に伝播・普及することになります。上記のNHK特別番組によれば、古代史の専門家集団の遺跡発掘や各種文献調査結果を繋ぎ合わせると、ヒッタイト王国で確立された製鉄技術の伝播経路として、図6.2に示すような解釈が可能との解説がありました。図中の青色の太線が製鉄技術の伝播経路(アイアンロード)を示しており、王国滅亡の紀元前1200年頃から、製鉄技術は最初にヒッタイト王国から東方、すなわちアジア方面に伝わり、黒海とカスピ海の間を北方に伝播したようです。その後、カスピ海の北側をさらに東方に伝播し、モンゴールまでほぼ地図上で水平に伝わり、図6.2に示すように途中で南方に分岐して成都付近まで伝わり、ここからさらに東方に伝播し朝鮮半島まで到達したようです。モンゴールの分岐点より東方に伝播した製鉄技術は朝鮮半島まで伝播することなく、南回りの伝播速度が速く、こちらの経路の方が先に朝鮮半島まで到着したことを意味します。紀元前5世紀~4世紀にかけてモンゴール地域に強大な遊牧国家を築いた「匈奴」と「漢」の2大国家間における壮絶な戦いが続いた時期があり、当初は匈奴族側のみに「鉄」の技術があり、戦闘において圧倒的に優位に立っていたが、漢族側にも製鉄技術が伝わった後は条件が互角となり、一段と壮絶な戦闘が展開されたものと推察されます。
NHK特別番組の解説によれば、匈奴族の製鉄技術・鉄加工技術はかなりハイレベルであり、製鉄遺跡の発掘現場から甲冑をも打ち抜くための精巧な鉄製矢じりが多数確認されています。当時の矢じりのレプリカを作製して、TV番組中で実際に動物のあばら骨付き肉に甲冑を着せて、これを数十メートル離れた場所から弓矢で射ると、見事に甲冑を打ち抜いた後、しっかりと厚肉部も貫通していました。本連載記事(4)に紹介したように、青銅器時代に成都付近に大規模な青銅器製造拠点があったことを述べましたが、この地に高温まで加熱するハイレベルの火の利用技術が確立されており、この技術と製鉄技術を組み合わせ、漢族も鉄を広く利用する技術が確立し、匈奴族と拮抗するレベルに達し、やがて匈奴を打ち負かすことに繋がったような解釈ができるように思います。
最後に、図中の赤色の太線はシルクロードを示すもので、当初は中国の長安(現在の西安)からヨーロッパの中心になっていたローマまで結ばれ、多くの物資を相互に交易する経路になっていたことは誰もが知るとおりです。このシルクロードが形成されたのは紀元2世紀の頃であり、アイアンロードは、それよりも1000年も前の時代から徐々に形成されたことになります。ここで、青色のアイアンロードと赤色のシルクロードを比較してみると、アイアンロードはシルクロードよりかなり北側に位置しています。この理由については、上記TV番組で興味深い解説がありました。つまり、シルクロードは駱駝や人間が歩きやすい経路を選択して形成されたが、アイアンロードは製鉄時に必要となる大量の木炭を確保するために、木炭にし易い木々が生えている場所を選択しながら、順次、次々と場所が推移しているとのことで、加熱用燃料としての木炭の重要性が再認識されます。