シリーズ「鉄の利用:人類の遥かなる営み(1)」【本学理工学部のBKC新展開と古代製鉄との出会い】

新シリーズが始まります!

本学名誉教授で総合科学技術研究機構上席研究員の酒井達雄教授 「鉄の利用:人類の遥かなる営み」を連載します。

皆様是非お読み下さい。

鉄の利用:人類の遥かなる営み(1)【本学理工学部のBKC新展開と古代製鉄との出会い】

酒井達雄(本学名誉教授/総合科学技術研究機構上席研究員)

先日、機友会事務局より、機友会ニュース(デジタル版)への連載記事執筆の依頼があり、諸点検討の上、標記のタイトルで記事を執筆させて頂くことにしました。当方、昭和43年に機械工学科を卒業、昭和45年に大学院を修了し、1年間だけ沼津高専・機械工学科に勤務の後、縁あって母校の教員に採用して頂き、2011年定年退職後の今でも講義や研究に取り組んでおり、間もなく50年の年月が経過しようとしています。年が明けると正月には73歳を迎えることとなり,自ずと人生をしみじみと振り返る気持ちになります。また、長年の大学勤務の過程で、年々、数百名の機械系学生・院生が卒業されていますので、在職期間の卒業生数は1万名を越える人数になります。当方は、機友会や理工系同窓組織、さらに全学校友会などの役職を務める機会が多く、多数の校友の皆さんが社会で幅広くご活躍されている現状をつぶさに拝見するたびに、新たなエネルギーを与えられる思いがします。このような多くの卒業生各位の日々のご努力や営為に、心より敬意を表しますとともに、益々のご発展とご清祥を祈る次第です。

本学は、明治33年(1900年)に「私立京都法政学校」としてスタートしたので、間もなく創立120周年(2020年)を迎えます。前後しますが、明治2年(1869年)に西園寺公望が京都御所内に開設した私塾「立命館」の名称を継承し、本学は大正2年(1913年)には「立命館大学」と改称し、大正11年には大学令(旧制)による立命館大学に昇格しています。理工系学部としては昭和13年に「立命館高等工科学校」が創設され、翌年には「立命館日満高等工科学校」に改組され,以降、時代とともに大きな変遷を辿ることとなります。終戦直後の昭和23年には新制大学令が発布され、本学は法学部・経済学部・文学部の3学部で新制大学令により認可された「立命館大学」として新たなスタートを切りましたが、翌年の昭和24年に上記の立命館日満高等工科学校を改組して理工学部が誕生しました。爾来、80年に及ぶ歴史を刻んできていますが、数学物理学科・化学科・電気工学科・機械工学科・土木工学科の5学科構成の理工学部が、今や理工学部・情報理工学部・生命科学部・薬学部なる理工系4学部・15学科編成の壮大な理工系学部に発展しています。その間、機友会の会員はじめ多くの校友各位より、物心両面で繰返し貴重なご支援を頂きましたこと、紙面を借りて厚くお礼申し上げます。

さて、本学理工学部の創設以来の発展経緯を上に略記しましたが、現在の理工系4学部構成の巨大な教育・研究機関が実現できた第一の契機は、1994年の「びわこ・くさつキャンパス(BKC)」開設と新キャンパスへの理工学部の拡充移転です。地元の滋賀県と草津市のご支援を得て大津市との境界領域に58ヘクタールの校地を確保し、小高い雑木林や松林が連なり、ところどころに大小の池が点在するような丘陵地を地元の予算で粗造成して頂き、造成された更地に大学の予算で種々の教室棟や実験棟、さらに図書館や生協諸施設・課外活動施設など、多くの校舎を建設し、3年余りの工期で新キャンパスを完成させることになりました。新キャンパスへの移転が学内で最終決定したのが1989年であり、当方は、その翌年に長年住み慣れた京都の地から、新キャンパス隣接のニュータウンに住居を移し、理工学部の拡充移転と運命をともにする覚悟で転居した訳であります。したがって、転居後しばらくは新キャンパス隣接地から衣笠キャンパスまで車で通勤することとなり、キャンパス造成工事の進捗状況を毎日目視で確認しながら、通勤しました。

(↓図をクリックすると拡大されます) 

  

このような造成工事が開始されると、雑木林や松林が次々に伐採され、何台かの大型ブルドーザーで高い部分の土を削って低い部分に埋める工事が集中的に進められました。この工事が順調に進捗する過程で、何やら遺跡のような痕跡が発見され、一旦工事を中断して遺跡の発掘調査をすることになりました。文化庁・滋賀県教育委員会・本学文学部古代史専攻教室の3者混成の遺跡発掘調査団が組織され、専門家集団による詳細な発掘調査が行われました。その結果、7世紀~8世紀頃に当地にて大規模な製鉄が行われていたことを示す多くの遺構が確認されました。添付の説明図に示すとおり、製鉄炉、大鍛冶場、小鍛冶場、多数の工房、炭焼き窯、梵鐘鋳造場、さらに従業員の宿舎跡などが、ほとんど現在のキャンパス全域に分散配置されており、とくにこの製鉄遺跡の特徴として、須恵器・土師器などの陶器の製造施設が同じ敷地内に設置されている点が挙げられます。(当方は信楽焼の原点がここにあると考えており、いつか折を見て調べてみる予定です。)発掘調査を指揮された本学名誉教授・山尾幸久先生の解説によれば、本製鉄遺跡での従業員規模は実に4000名に上るとのことで、恐るべき巨大な古代製鉄コンビナートがこの地に形成されていたことが分かります。

本学理工学部が将来の飛躍・発展を期して新キャンパス(BKC)を開設する工事の段階で、上記のような「製鉄遺跡」が発見されたことは、甚だ衝撃的かつ感動的な偶然の出来事ですが、自然界の真理探究やものづくり技術の根幹を対象とする理工学部の教育・研究の新天地として、誠に恰好な地を得たように痛感します。また、便利で豊かな人々の生活を実現するために、大和朝廷がまだ十分に確立されていないような時代から製鉄技術が開発され、大変強くて便利な材料として「鉄」が広く利用されていたことを想うと、時代を超えた人間の弛みない努力の営みが胸に沁みます。この感動が当方を突き動かし、「鉄の利用:人類の遥かなる営み」なるタイトルで本連載記事を執筆させて頂くことになりました。

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