機友会ニュースデジタル版第32回 高木 守 氏(昭和35年機械工学科卒業)           「ささやかに国際交流」

ささやかに国際交流

昭和35年機械工学科卒業 高木 守

過日、学生時代に所属していたクラブのOB会で、津田会長から思いがけず機友会機関紙「デジタル版」への寄稿のご要請をうけた。今までの寄稿を見ると並みいる先生方の学術論文的な記述が多くを占めており、はたしてどのようなことを書けばいいのかと戸惑ったが、「ご自由に、気楽に」とのおことばに甘んじて、ささやかな人生経験の一部をご紹介することにした。内容的に他との整合性はとれないがご勘弁いただきたい。

1960 年 3 月に卒業後 40 年の勤めを終えて 2000 年に退職。 元来セールスエンジニアー志向であった私は、概ねこの路線に沿った仕事に携わり、海外市場中心に「市場調査・開発・生産・サービス」までのオールラウンド・プロセスに亘り体験できたことは大変ラッキーであった。私達の世代の多くは、会社人間といわれ、またそれが社会的にもごく自然に受け止められてきたと思う。そのような「人種」が多かれ少なかれ遭遇するのが、定年後にどのような人生を送るかだが、これは時としてかなり深刻である。まれに「定年離婚」の悲劇を生むこともありうる。おおかたの場合、退職後の数ヶ月は何かと後始末や家回りの補修などで結構暇なく過ぎていくが、その後は徐々に時間の「もて余し」を感じはじめる。夫婦間でも顔を付き合わせる時間が多くなると何となくギクシャクすることも出てくる。ここから本当の「定年後」がはじまる。元来会社人間は仕事以外の付合いが殆どない。そこで「何とかこの状況から抜け出さねば」と思いはじめる。きっかけは各人各様と思うが、私の場合は「過去の経験を生かして何か社会のお役に立てないか ?」との思いに至る。目標が定まると人間は案外積極的になれるものである。チャンスを求めてどんどん外に出るようになる。出ればいろんな人々との出会いがあり、一つの出会いがまた新たな出会いを生む。この様なことの繰返しが今日ある「日常の環境」を整えてくれたものと思っている。わが細君もご同様で、お互いに干渉もなくそれぞれのスケジュールにより日々忙しく飛び回っている。二人の行動は居間にある「書き込み式カレンダー」がコミュニケーション・ツールとして重要な役割を果たしている。家事の適度な分担と併せて、今日の我が家は平穏かつ忙しく日々が廻っている。

さて、今日のこうした安定状態(?)にある私の日常を少しご紹介しておきたい。その中心はボランテイア活動だ。それも当初目指した「国際交流」に関連している。その一つは、JNTO(日本政府観光局)傘下の任意団体である「善意通訳クラブ: 通称 SGG クラブ」で地元の「クラブ」に所属し、海外からの旅行者への情報サービスの提供が中心だが、経常的な活動としては京都駅のJR東海案内所の一角を借りての「よろず案内」と要望により市内の観光案内もおこなう。二つ目が東山岡崎地区にある京都國際交流会館での「市民生活アドバイザー」活動だ。ここでは在留外国人の日常生活に関するさまざまな問題・相談事などへのアドバイスが中心だが、政府機関の観光局から「案内所」としての指定を受けていることから、海外からの訪問者への情報の提供も重要な役割の一つとなっている。三つ目が「京都街中案内所」だ。四条河原町を少し北に上がったところにある小さな案内所ながら、繁華街のど真ん中と言うこともあって結構外国人も多い。多種多様の人たちとの対話は思いのほか楽しい。あまり耳慣れないなまりのある言葉(アジア系、オセアニア系など)への応対も過去の経験がけっこう役に立っている。最近はアジア諸国、とりわけ、中国および韓国からの訪問者が多い。中には「お国ことば」以外はわからないという人もあり、コミュニケーションに困ることが結構多い。

最近は、情報機器を利用した「対話式翻訳ソフト」の性能が随分と向上してきており、ほぼ実用レベルにあって大いに助けられている。

一方では、地域とのつながりも大切にしたい。各種イベント(運動系、学習系、遊び系など)にも極力顔を出し、出来る範囲でのお手伝いもしながら「つながり」を保つよう心がけている。歳を重ねて体のキシミが多少あっても、気分だけはいつまでも元気でありたいと願うこの頃である。

終わりに、在学生の皆さんに参考になればと少し加筆しておきたい。

私たちの頃(昭和35年卒頃)は、日本経済も成長過程にあり、海外市場のウエートはそれ程大きくはなかったが、先にも述べて通り元来「セールズエンジニア指向」だったこともあり、英語会話を勉強しておきたいとの思いが強かった。当時理工学部にもあった「英語会話研究会=ESS」に入り、卒業時には日常会話に不自由を感じない程度までになっていた。幸いなことに、当時としては珍しく理工学部にも、英国人の先生がいて「英会話」の講義が提供されていた。英国流の「きつい仕込み」で鍛えられたおかげで、一段のブラッシュアップできたのは大変ラッキーであった。 当時、「英語の話せる技術屋」はめずらしく、後々の仕事の過程で大いに役に立ったものである。

改めて云うまでもないが、現在はまさに「世界の中の日本」であり、海外市場抜きには成り立たない時代である。わけても東南アジア諸国の地位の高まりは著しい。このような時代には、「英語が話せて当たりまえで、他にもう一つくらいの外国語」ができてはじめて外国語的付加価値を持つ時代といわれそうである。

今は、就職戦線も恵まれた時期にあるが、社会に出てからの生存競争も避けられない。何か自分に自信を持たせてくれる「他とは違った付加価値」を一つでも多く身につけておく努力の怠りないことを願う次第である。

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