シリーズ「鉄の利用:人類の遥かなる営み(5)」【青銅器時代から鉄器時代へ】

鉄の利用:人類の遥かなる営み(5)【青銅器時代から鉄器時代へ】

酒井達雄(本学名誉教授/総合科学技術研究機構上席研究員)

人類が石器時代に「火」を利用する技術を確立し、「木炭」の製造技術も地球上の多くの地域で確立され、日常生活に幅広く有効利用してきた歴史を前回記事の中で簡潔に紹介した。また、この「火」を利用する技術が向上・発展し、紀元前3500年頃になると銅鉱石の融点以上の高温が確保できるようになり,地球上のいくつかの地域で青銅の製造が可能となって,人類は「青銅器時代」を迎えることになった経緯を併せて紹介した。それまでは、生活で用いる道具類としてはすべて石器や草木などを用いていましたが,人工的に製造された新たな材料として大変便利な「青銅」が、地球上の各地で広範囲に有効利用された訳です。

さて、「青銅器時代」が始まって2000年程経過した頃、すなわち、紀元前1500年頃になると「火」に関する技術は一層進歩して、従来以上の高温を実現できるようになりました。前回連載記事(4)にも述べたとおり、純鉄(炭素含有量0%)の融点は1538℃ですが、炭素を4%程度混ぜると融点は1148℃まで低下します。炭素だけでなく種々の不純物を含んだ鉄鉱石については、1200℃程度で溶解することができます。このように、人類は「火」を取り巻く種々の技術を進歩させ、遂に鉄鉱石を溶かすような高温を実現し、「鉄」を造ることができるようになりました。人類史上、「鉄」を初めて造り始めた民族とその場所について、大きな関心を抱きつつ多くの文献を調べたところ、「誰々がこの場所で初めて製鉄をした」というような簡潔・明瞭な記載は見当たらないが、遺跡調査や種々の調査資料をもとにした斯界の専門家らの諸説を総合的に見渡して、筆者は以下のような解釈が最も順当でないかと理解している。

初めて製鉄が行われたのは、現在のトルコ付近を中心にして高度の文明を開いた古代オリエント時代の民族「ヒッタイト人」と考えてよいようである。世界の古代史の専門家グループにより解釈が分かれるが、「ヒッタイト族」は紀元前1600年頃に古代オリエントのアナトリア地域(アジア大陸最西部で西アジアの一部/現在のトルコのアジア部分を指す地域)に現れた優れた民族で、

独自の文字・言語体系をもち、高度の文明を確立していた先進民族と考えられている。古代オリエント時代の当該地域の地図を図5.1に示しており、図中で赤色の斜線で示した地域がヒッタイト人が勢力をもつヒッタイト王国を示し、アナトリア高原のほぼ全域を勢力下に収めています。このヒッタイト族はもともとその地域に生活していた民族が、黒海を渡ってきた北方系民族と共生しながら比較的短期間にヒッタイト王国を形成したように解釈するのが、諸説を比較・融合すると最も自然な解釈と筆者は理解している。

ここで、このアナトリア高原を中心にしたヒッタイト王国の形成過程と「製鉄」発祥の関係を調べると、そこには人類の夢や希望、権力闘争、侵略や敗北、さらに複雑な利害関係が幾重にも絡み合った、正に人類社会で時代を超えて繰り広げられてきた「人類の遥かなる営み」の姿が浮かび上がってきます。人類における最初の製鉄としては、アナトリア高原に住んでいた民族が山火事の折に偶然に接した出来事が出発点になっているようです。すなわち、山火事で木々が激しく燃え盛る中で、木々の重なりや風の吹き方が最も効果的な条件が重なって、ある場所の温度が著しく高温になり、丁度その場所に鉄鉱石があったから、偶然にもその鉄鉱石が溶けて流れ出た訳です。つまり、偶然にも諸条件が奇跡的に重なり合って、自然の製鉄が行われたことになります。おそらく、当時の現地の人々は自然に溶けて固まった塊りが何であるのか、理解できなかったと思いますが、やけに硬くて強いことを知りました。そこで、その近辺の岩石や石ころを木炭を燃料にして、1500℃程度まで加熱してみると溶けて固まり、このような経緯で偶然に手にした硬くて強い材料「鉄」が人工的にできることを知りました。これは、まだヒッタイト族がアナトリア高原に王国を築く前の時代で、紀元前1600年頃の出来事です。しかし、このような製鉄は極めて少量の鉄を造るのが精いっぱいであり、多くの生活道具を鉄で造るのは困難な時代が続きます。

ヒッタイト人がアナトリア高原に移り住んだ(侵略した)のは丁度このような時期に当ります。すでに製鉄の基礎知識と基礎技術は先住民らが確立しておりましたが、前述のように独自の文字や言語体系をもち、高度の文明や多くの技術を備えた先進民族としてのヒッタイト人が当地に入り、先住民が開発した製鉄技術を各段に改良・発展させて、大量の鉄を自由に製造できるような製鉄技術を完成させたと考えるのが、最も妥当な解釈でないかと推察されます。このような経緯で大量の鉄を製造できるようになったヒッタイト人は、生活で用いる道具類に限らず、強度の高い鉄の有効利用を考え、民族間の戦いや国家間の戦いに用いる武器・武具などを鉄で造るようになりました。

多くの文献中で共通して記載されている事柄として、ヒッタイト人が鉄を利用した戦車を開発し、この戦車の威力により他の民族や他の王国を次々に打ち負かしたことにより、ヒッタイト帝国がメソポタミアをも含む古代オリエントの一大支配勢力を形成したことが挙げられます。ヒッタイト人が開発した当時の戦車を図示したのが図5.2であり、この図では2頭立て3人乗りの戦車が描かれています。3人の内の一人は御者であり馬の制御が任務で、他の2人が槍や盾を持って敵と戦う戦士の役割を果たします。当時の通常の戦士としては武器・武具を身に纏って徒歩で戦う戦士と、馬に跨って敵と戦う騎馬戦が一般的であったところ、図5.2のような強力で機能的な戦車が現れると、圧倒的な戦果を収めたことは容易に想像できます。他にも1頭立て2人乗りタイプや4頭立て6・7人乗りタイプなど、種々の戦車が製造され、実戦で使用されたようです。読者の中には、1959年に公開されアカデミー賞の11部門を受賞した映画の名作「ベンハー」を鑑賞された各位も多いと思います。この映画の最大の見せ場は何台かの4頭立て戦車を用いて、競技場を駆け回り、命がけで他の戦車をやっつける場面ですが、この時の戦車として上記のヒッタイト軍戦車が使用されています。

戦場でこのような戦車が利用される場合、戦車の最重要部品は車輪と車軸、さらにこの車軸を支持する軸受です。これらの部品が破壊したり損傷を受けると、それは戦いに負けることを意味します。ヒッタイト人はこれらの重要部品を鉄で造り、改良を重ねて圧倒的な軍事的優位性を確保し、隣接地域を順次支配下に置き、ヒッタイト王国は紀元前1500年代にはメソポタミアを含む古代オリエント全域を支配し、当時、文明・文化で圧倒的な存在感を持ったエジプトとも対等に対峙するまで勢力を拡大させることとなりました。図5.2(b)に示したように、紀元前1300年頃にエジプトで建立された寺院の壁にヒッタイト軍戦車のレリーフが刻まれている事実は、ヒッタイト帝国の実力と威信がエジプトまで伝わっていたことを意味するものです。このようにヒッタイト人は製鉄技術を武器にして、広大なヒッタイト帝国を形成した訳であり、「鉄」の威力が帝国を実現させたといっても過言ではありません。まさに、「鉄は国家なり」の実感を覚える次第です。

これまでの本連載記事を通読頂ければ判るとおり、大量の高品質木炭を作る技術、効率の良い加熱炉を作る技術、鉄鉱石を掘り出す技術、鉄鉱石を溶融する技術、凝固した鉄を鍛造する技術、種々の部品を加工する技術、これらを組み立てる技術、さらに完成した製品のメンテナンス技術などが、すべて総合的に結びついて、実戦で大きな戦果を収め得る戦車が初めて完成した筈です。これらの製造プロセスは、現代の「ものづくり産業」のあらゆる分野で取り組まれている技術開発の過程とそのまま重なるものです。現代社会の各種製品の原動機の多くが、モーターであったり、エンジンであったり、タービンであったりするのに対して、古代オリエントの時代の原動機は、「人」であったり「馬」であったりする点が、象徴的な違いです。そこで、原動機や燃料・エネルギー源の発達や変遷の歴史については、文化人類学的な意義が極めて大きいと思われますので、後ほど、章を改めて解説を試みる計画です。

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