今回は、昭和44年修士修了のOB、河合末男 氏に学生時代の思い出について執筆いただきました。
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学生時代の思い出 ―私と材料強度との縁―
河合末男(昭和44年修士修了)
学部時代
私の学部時代の大半は洛北、鷹ケ峯にあった学思寮の寮生であった。寮生200名の大きな寮で党派に所属し学生運動をやっている学生もいくらかいた。3回生の時、私はノンポリであったが寮長に頼まれて副寮長を務めた。当時、学生寮では寮活動が活発で夜が遅かった。従って、授業はサボリがちになり、まじめな学生ではなくなった。ただ、私は経験を積むことが大事と考えて寮活動を優先した。おかげで、専門科目が集中する3回生の取得単位は4年間で一番少なくなった。
3回生も終わりに近づいて卒業研究を選ばなければならなくなった。私はすっかりサボリ癖がついていて、なるべく楽なものをやりたいと考えていた。卒研の説明会のときに材料力学の村上教授から「英語の論文を読み、週1回その内容を先生に報告し討論する」という方式を1,2名やりたいとの説明があった。私は、これは楽でよいとそのテーマに申し込む積りでいた。ところがその後、2,3日して別の寮にいる機械科の向井先輩(それまで面識はなかった)から電話があり、関 護雄先生の研究室に来ないかとのことだった。よく聞いて見ると先生が私のことを覚えておられて誘われたようである。後に先生から聞いた話では次のよう経緯があったようである。先生の「英文講読」の授業では、割り当てられた部分を翻訳して提出することになっていた。これは授業終了後、提出するので先生の訳をそのまま書いて出せばよいのであるが、私はノートにとっていなかったので、何時も自分独自で翻訳して提出していた。ある時、私の訳が先生の訳とは違っていて、どうも私の訳のほうが正しいようだと先生が判断されたことがあり、それで名前を覚えられたようである。せっかくのお誘いだから断る理由もないと思い関・田中研究室に決めた。この研究室は金属疲労の研究をやっており、田中道七先生はまだ助教授であったため、共同の研究室にされていた。田中道七先生の下で金属疲労の研究を始めることになった。
【研究室ハイキング(昭和42年)。中央が関教授、右となり私】
私は田中先生に大変気に入られ、面倒を見ていただいた。先生は学生時代、学生運動などもされ、社会科学に造詣が深かった。寮生活の延長で先生にいろいろ議論を仕掛けたが,何時も付き合っていただいた。考え方のスケールの大きさに感心した。また、私にだけ本箱と指定席を頂いた。4回生は長机と椅子があるだけで席は決まっていなかったのだが。
やがて、就職の時期になった。私は大学院に進学しようと考えていた。3,4回生の間は寮活動その他であまり勉強していなかったので大学院で勉強し直そうと考えたからである。卒業時に取得した単位数は多くなかったが日本機械学会畠山賞を受賞した。
大学院時代
昭和42年機械科の修士に進学したのは学部から進級した古城敏幸君と私の2名、立命の助手をやっておられて大学院に進まれた橋本さん、三洋電機で数年働き、高校教師になられ、修士に行くため夜間高校に変わられた元津さんの4人であった。自分の机が与えられ、学部生2人とともに研究した。学部時代の反省もあり、大学院時代は勉強した。朝9時頃学校に行き、夜の10時まで学校にいることにした。主に、数学、専門の疲労、ドイツ語などを勉強した。ドイツ語は疲労の専門書を4回生の希望者に教えた。3人ほどが卒業まで付き合ってくれた。
2回生になると就職先を決めねばならない。私はメーカに入社し、設計部門で物作りをやりたかった。そこで実力主義の日立を第1希望にした。
日立の入社試験の面接時に、「どうして日立を希望するのか」と聞かれた。私は「日立は実力主義だといわれているからです」と答えたところ、面接員は「皆さんそう言うよ」とおっしゃった。私は更に追加して「私は私学の出身です。出身校で差別されてはたまらない。一流の国立大学の連中と同じ土俵で相撲をとらせて欲しいと思います」と言った。この発言は面接員の共感を呼んだようであった。それ以外のいくつかのやり取りの後、面接員の1人が、「君は話が上手だね。僕が統括している営業部門に来ないか」と声をかけてきた。これには私も困って、「大学院でせっかく勉強してきたので、それを生かしたいと思います。」と言って、営業部門行きを断った。
後で知ったことだが、日立への就職が決定してから、私の配属先を巡って、恩師の関教授が動かれたようである。それは関先生が自分の出身校である京都大学の卒業生のルートを使って、私を「機械研究所」に送り込もうと考えられたのである。私は日立で、むしろ、設計をやりたいと考えていたのだが。
折角の関先生のご好意を無にするわけにはいけないと思い、機械研究所に行くことにした。今になって振り返ると、卒業研究の選択、就職先と私にとって重要なことは関先生が決定的な役割を果たされたことになる。寡黙で控え目な先生に大いに感謝している。 学部、大学院を通じ、田中先生には終始ご指導いただいた。
日立で
日立では予定通り、材料強度の研究室に配属された。学生時代からの研究分野であったため、最初からフルスピードで研究に注力できた。役職関連では研究室長、部長、副所長を経て平成10年には機械研究所長に就任した。 その後、日立製作所の研究開発の担当役員であった武田専務が日立工機の社長に就任されて1年後、乞われて日立工機に転出し、取締役、常務取締役などを務めて、平成20年65歳の役員定年で退職した。
この間、昭和55年には、田中先生の指導の下、立命館大学より工学博士の学位をいただいた。また、平成3年機械学会論文賞、同12年には機械学会の材料力学部門功績賞をいただいた。平成26年には日本材料学会の、同29年には機械学会の名誉員になった。